PSI Vol.5, No2 November 1980 暗示学習特集号Foreword pp1.
 巻頭言

佐々木浩氏特集に寄せて
佐々木浩一

 わが国のみ存在する言葉の一つに、『受験地獄』と云うことがある。大戦後の学制改革によって、多くの高校大学が創設されたが、進学者の増加によって、受験競争の度合は一向に低下せず、さらに学校、特に小中高の初等中等教育の面で、戦前には無かった「落ちこぼれ」と云う問題を生じてきた。特に義務教育である中学校教育では、現在的に解決を急がれる一大問題となっていることは衆知の事実である。
 画一的な学校教育の場である学校では、その悩みを解決する手段も見つけられぬまゝ放置されているのである。学校教育法によれば、学校には、教育上の諸問題を特つ学生、生徒の事を処置するためにカウンセリング専任教師を置くように決められているが、実情は人件費上の問題から、教科担当教師が形式的に兼任すると云う、お茶にごし的方策しか取られていない。その結果は教育の場を混乱させる非行生徒や暴力学生を生んでいるのである。また受験競争から生じる学力不安は、数多くの塾形式の補習機関が、金もうけ企業として流行し、今日都会に住む殆どの小中校生で塾に行かぬ者は無いと云える程である。
 しかし、それらの塾が学力向上の為に必ずしも機能しているとは云いがたく、子供に取っては社交の場と化し、親に取っては塾に行っていると云う安心を持つことにのみ役立っているのが、実情である。このような今の社会の一つの風潮は何んとかしなければならないことでありながら、文部省もも無為無策であると云っても過言でない。そして単に指導要領やカリキュラムをいじくる程度のことしかやっていないし、学校現場の教師の、教え方にも、大した進歩の後がこの二十五年間において、見られないのである。
 どうして、教育行政と云うものは、そのように固定的で保守的なのであろうか、と筆者は予て考えて来た。そして気づいたことは、今日の学校教育に於ては、人間の知能と云うものは、個々の人間の生れつきの属性として、良否の程度差があリ、それはIQ(知能指数)として測定できるものである、という、過去の教育心理学の定説はゆるがしがたいものである。、と云う先入観が基礎となっている。と云うことである。機質的な弱点を持って出生した者はさておき、通常に、正常健康に生れ出た、人間に、先天的な優劣があるか、と云う問題について、遺伝学的な立場から、種の優劣が18世紀以来、論ぜられ、実験され、そして遺伝学や優生学の体系が形成されてきたが、この過去の学説にとらわれて、それが、先入観として固定しているのではないか、と云う疑問を持つようになつたのは、筆者が終戦後、ソ連邦抑留から復員し、病気療養中、郷里の行政当局の依頼によリ、高等学校で教鞭を取っていた時代からである。その時以来の筆者の研究の方向は、人間の知能や能力を決定づけているものは、個々の人の脳の生理的な構造にもとづくものであるのか、と云うことであった。そして得た結果は、先天的な生理的な原因部分を皆無とは云わないが、知能の良否は、幼児からの生育の過程を通して形成された、心理学的な人間形成の様式、或は精神的思考形態や性質、習慣によって知能は形成されるものである、と云う結論であった。

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